大八廻りのクモハ123系

64ウォッチャー

2010年11月22日 20:51

小野~塩尻

「風っこうとう号」第2日往路撮影後、前日のようなすれ違いを避けたいとの思いから復路の営業運転はは1回戦で収めることにして再び善知鳥トンネル小野寄りへ行き「クモハ123系」を捕捉

 今では塩尻~辰野~岡谷ルートは中央線「支線」という捉え方のようですが塩嶺トンネル、みどり湖経由のショートカット路線ができる前は辰野経由以外の中央線はありえませんでした
 飯田線だと勘違い方もいるようです。地元では「大八廻り」または辰野線と呼ばれてもいるようです
「大八廻り」とは?
以下、ウィキペディアより要点引用
 伊藤大八(いとうだいはち)(1858年-1927年)は長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)出身の帝国議会衆議院議員。
1894年(明治27年)、中央本線誘致に木曽谷と伊那谷で熾烈な誘致運動が起されたが、結局、木曽谷経由に決定された。当時鉄道局長を務めており、この決定に失望した伊藤は、せめて伊那谷の一部にだけでも駅を誘致するべく奔走。塩尻峠経由ではなく、上伊那の辰野経由に変更することに成功したといわれている。地元では伊藤の功績を称えて、同線の旧線(辰野支線)を別名で「大八廻り」と呼ぶこともある。
しかしこのルート選定に関しては、当時も塩尻峠経由だと峠頂上のトンネルと前後の急勾配、急曲線が不可欠で予算や工期、それに建設当時の蒸気機関車の性能運用面からは非現実的という説も極めて有力であり、いわゆる「我田引鉄」の伝説の一種である可能性も高い。現在の塩嶺トンネルのような延長約6kmのトンネル掘削は明治中期の技術面を考えれば困難なものであったと考えられる。



ストレートなので予想外に速度があってパンタグラフが切れてしまった


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